2006年9月12日火曜日

砂糖じゃなくて塩

なんでお清めは塩であって砂糖じゃないの?

職場で対お化け作戦について議論していたら、お清め方法についてこんな疑問が投げかけられました。「いや普通塩でしょう」と言ってしまうのは簡単なのですけど、これは新しい視点です。

うーん、なぜ塩なんだろう。似てるしね。
塩である理由はわかりそうだけれども、砂糖でない理由ってのはなかなか...鋭い人だなと思ったのであります。

まずは塩について考えてみると、塩って生きる為に必要だし、わりかし自然の状態で存在するものです。身近で大切なものですよね。まじないごとに使ったのは当然のように思えます。調べたらすぐに見つかりました。(清めの塩
ほかもいくつか確認してみたけれども、たいがいはここに書いてあることと大同小異でした。ふと気がついたのは神道に限らずキリスト教でも塩を大切に考えていて、必ずしも日本だけの文化ではないのだということ。これは日本の仏教だけかもしれないけれども、お葬式から帰ってきた人にはで塩でお清めしますね。未確認ですけれどもユダヤ教もイスラム教も塩を大切にするんじゃないかなあ。

すくなくとも日本では塩の持っている必需製や薬効に、の概念が密接に結びついていることは間違いないようです。

さて砂糖ですけれども(笑)、歴史的にはここに紹介されている通りで、インドを発祥として世界に広まっていたようです。塩とちがって生成過程が必要なので、普遍的なそんざいではなかったようですね。面白いのはここの記述です。古代インドのバラモン教では砂糖を聖なるものとして扱う考え方があり、聖なる牛がサトウキビをかじっていたのがきっかけだとか。実際のところはもう少し調べないといけないでしょうけど、なるほどといったところです。

砂糖は生活に必須のものではないし、当分そのものはそれこそお酒からいくらでも摂取できます。薬効もそうですが嗜好品としての性格が強いみたいですね。古代インドで聖なるものとしてみられたのは局所的な考えであって、塩のように普遍的な意味はもたなかったようです。

つまり、塩は生活のなかで自然とその地位を得て行ったのと比較して、砂糖は半ば意図的に、趣味的な贅沢品としての性格が強いものでした。姿形は似ていますが、まったく違う性格ものだったわけです。聖性を得ない限りお清めになることはなさそうですね。:-)

当たり前の結論になってしまいましたが、冒頭の疑問は、現在の日本の状況(砂糖も塩も似たような調味料のひとつ)でこそ発せられるものです。今の日本の東京に住む若者が当然抱く発想であって、戦争を経験した世代の人々や、世界の地域によってはまったく異なった形をとるでしょう。
曰く、「砂糖は塩よりも貴重である。汝の悪霊を祓うには高貴な砂糖の力をもってするほかはない。」なんて儀式を執り行う地域だってある(あった)んじゃないでしょうか。

笑っちゃうような疑問でしたけれども、あらためていろんなことを考えさせられました。

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